安藤清吉「私の履歴書」

安藤文隆の祖父 二代目清吉が書き残したもの


昭和初期の店舗 三叉交差点真ん中より撮影 正面左よりに池上通り

トップページへ

     本籍地 東京都品川区大井三丁目四番八号
     現住所 右に同じ
     二代目 安藤清吉(幼名 平治)
             明治二十九年四月七日生
        (別紙初代安藤清吉戸籍謄本参照)

 私は明治二十九年四月七日、荏原郡大井村三千三百
五十五番地において生れ、本家安藤治左衛門三男、初
代安藤清吉と母いとの男五人、女五人、兄弟十人の第
三子、二男として生まれた。

<<本家のこと>>
 本家は、遠く足利時代より、右本籍地大井村三三五
五番地に居住しているらしく、菩提寺である品川・天
竜寺が火災焼失しているため、詳細は不明だが、墓誌
により明瞭である。
 祖父治左ェ門、祖母たつは大変な信仰家で邸内に九
頭龍弁天や稲荷等を祭り、毎年祭礼を行ない、数軒の
露店が出たことを覚えている。その稲荷は伏見よりう
けて来たものらしく、額裏に正徳○年の文字が見られ、
その古さが証明される。現在は東大井○○丁目○○番
地○○号、大福生寺境内に移され祭られている。
 私の幼少の時、祖母は信仰の傍ら点灸をしていた。
稲荷を祭る大百姓と欲望のないのが魅力でか、当時は
乗物の便もなかったのに横浜あたりより人力車で点灸
に来る人もあり、私の父親が作った百番までの下足番
が出払ったことも度々あり、点灸神殿は勿論、祖母の
二十畳ほどの居間等も常に満員であった。時に虫の居
所の悪い時は、「今日は駄目だよ。お灸をすえてもき
かないで害になるからすえないよ」と断ることもあっ
た。遠方よりはるばるきた人の哀願も頑として断って
いた。これもますます人気の盛り上がりになるのか、
ますます繁盛した。
 夕方、点灸も締切る頃、祖母が点灸室の小窓から手
まねきする。明治三十二年四月十二日分家した大井村
三百六十一番地の僕等の家は本家と畑道続きの隣接地     *三千三百六十一番地の誤り
で、「ソレッ」とばかりに長兄善太郎と競争で、山の
ような信者のお供物を貰いに行く。そして供物を持ち
切れない程貰って、ニコニコして畑道を帰って来たこ
とを覚えている。祖母は馬込の天神山という大百姓が
作っている自作のお茶が大好物で、僕は時折頼まれて
茶を買いに行った。私の母の実家が近所なので道を憶
えていた。駄賃に五○銭くれた。
 本家のおじいさん、祖父安藤治左ェ門は大井村、原、
村田家から養子にきた人で、『俺は此家の養子で番頭
だから、あまり財産は分けてやらない』といっていた
と父母から聞いたこともある。長男は○○才で死去し
たが、二男、三男(父)が分家後であったので、本家
家督は四男の久蔵が継続した。(十二才)

<<父母のこと>>
 父は祖父の男四人、女一人、五児の三男として慶応
三年七月十四日に生まれ、十五・六才頃、当時農業の
傍ら来迎院の寺子屋の助手をしていたとのこと。
 母いとは荏原郡馬込村一二五九番地、金子清次郎の
長女として明治六年四月二十七日生れ、十七才で嫁入
り、本家内に兄二夫婦と同居。三子をもうけ、農業に
精励、祖母さんにもお気に入りであったとか。
 父は明治三十二年四月、大井村三三六一番地に分家
した。
 日清戦争後、日露戦争の兆があらわれ、軍需工場が
東京付近に進出してきた。畑に次々と家が建ち、農地
の減少にともなう農業の将来を考え、大井村四一四八
番地(現在の場所)に本籍を移し、半農半商を考え父

大正12年の住居地図。現在の三ッ又交差点内の三角形の土地に店舗があった。
は三ッ又の草分けとしてよろずや式営業を開始した。 酒、食料品、荒物、雑貨、たばこ、薪炭、農業用具は 勿論、傘、下駄から履物まで一通りは揃えてあった。 父の作った胡瓜、茄子その他の野菜は夕方店頭になら び、サメズ、浜川東京湾の漁師が持ち込む獲りたての かには茹で、魚類は煮魚に天ぷらに母が加工して、職 工さんやお客さんに喜ばれ繁昌していた。茹でたかに で焼酎を飲む連中もあって大変な人気であった。

昭和3年の住居地図。三ッ又交差点内の三角形の土地はなくなっている。
 三方道路の真中に建てた私の店以外は、一面青い麦 *栗原茂吉さんは現在の山中小学校の裏隣 畑で、一番近いお隣りは栗原茂吉さん、渡辺源次郎さ り、渡辺源次郎さんは旧国鉄アパート隣 ん(現在の鉄道官舎の前)であった。店からでる魚の り(ご子孫は山中木材)。 屑やかにの甲羅は、裏の畑に肥料として捨てられるも のだから、山中、森前、森下、一本橋附近、権現山附 近にいる狐狸が集って奪い合いをする。吾等幼児(私 は当時三才)は夜な夜な身のちぢまるコワイ思いをし た。狐がコンコン鳴くというのは大嘘だ。「キャアキ ャア」と鳴いていた事を憶えている。  私の店舗のある場所は、品川でも一番高い地盤であ る。店の前の道路にベンチを出して両国川開きの花火 を毎年はっきり見た。  大井町駅は明治四十年にできたが、それ以前は、今 *現大井町駅前城南信用金庫と阪急アワー は蓋のしてある立会川のどぶ川は、清水が流れ、小魚 ズインに挟まれた地点から踏切横に抜け があそび、僕らの安全な遊び場であり、しじみが沢山   る部分の暗渠化は昭和になってからか。 採れた。  母は五男五女の十子を産み、大正十四年三月四日、 子宮癌により五十三才で死亡した。  明治四十年頃、近所にぼつぼつ商店ができてきたの で、父は商店街の発展を企画し、大井村鎧ヶ淵三五〇 *ほぼ現在の三ッ又地蔵の位置。 〇番地の本家所有地内にあった当時雨ざらしで辻に立 っていた子育地蔵を利用し、古道具屋の三部辰五郎、 菓子屋の藤宮熊太郎と共に自ら発起人総代となり、品 川署に(当時大井警察署はなかった)縁日を出願した。 職工さんの月給日と休日をえらび、毎月十四日、晦日 を縁日とした。  この子育地蔵は、早稲田や慶応の学生が日曜等ハイ キングに来ると、鼻緒の太い朴歯や古いステッキで、 「エイッ」と突き倒されて、常に倒れていた事が多か った。  最初のうちは露店数も少なく、父は弁当代として出 店者にその都度五十銭宛与えていた。この頃の五十銭 は、最高の鰻丼を食える価値であった。  当時はまだ人家もまばらのため、追剥等も出没し治 安も乱れていたため、父は交番の設置を品川署に出願 し、自分の土地の端を提供して交番ができた。これが 三ッ又交番の歴史である。  大正にはいり、映画館もできて、縁日露店も七百を 越す盛況となり、警察も夕方より車止めをして呉れた。 南は今の大井署の角、三ッ又通りは阪急の踏み切、今 の裏のバス通りは立会川まで、光学通りは森の三ッ又 までの大規模な車止めであった。  東京の三大縁日として亀井戸の天神、巣鴨のとげ抜 き地蔵尊と共に売れる縁日として有名となった。  商店街も急激に発展し、地元豪農鈴木八三郎氏等も 大井亭(寄世)を作り、その後大井館(映画)に改良 *現在の三松堂文房具店の辺りか。 し、一時非常に繁昌した。しかし、明治四十年に東京 横浜の国道開通と、四十二年大井町駅新設、つづいて 大井警察署の設置で、交通政策の見地から露店出店地 域も極度に狭められ、往時の面影は次第になくなった。  当時父は推されて村会議員から町会議員をして居り 僕が担当して商売は繁昌しており得意の絶頂と見えた が、僕には何故か、自治体の名誉職はやるな、と云っ ていた。 <<私のこと>>  私は生来勝ち気で負け嫌い、喧嘩早くて近所の子供 を泣かせ、親に押しこまれて父母も手を焼いていたら しく、満五才で大井小学校に預けられ(当時は生徒が   *山中小学校が大正5年の開校なので「大 少なかったのでそういうことができたのかも知れない)  井小学校」とあるのは大井第一小学校と 一年生を二回やったと覚えている。従って課目も次々   推測される。 に全部暗記していて、一年生の成績も、その後の成績 も常に上位であった。当時は尋常科四年、高等科四年 であり、高等科二年の時学制が変り、尋常科六年とな り、落第したような気持で不愉快であった。  或る日、島田則正校長が店に来て父と話しをしてい た。私のガキ大将ぶりを父に云いつけにきたな、と思 って障子の蔭で立ち聞きしていた。校長は「お宅の平 治君(僕の幼名)の元気振りにはちょっと困るが、暗 記力は優良で、一度教えたことはよく覚えている。そ れに成績も一・二番で負けず嫌いだから中学校にやっ て貰えば伸びると思う。府立一中(今の日比谷高校) ぐらい必ず入れると思うから進学させてくれないか」 と云っていた。父が何と答えるかと息を殺して聞いて いた。父が云うには、「うちはごらんの通り子供が十 人いて子守をさせなければならないし、店の手伝いも 必要だ。それに、入学以来級長で通した長男善太郎も 中学へやらなかったのだから二男をやる訳にはいかな い」と返事をしていた。校長さんもがっかりしたらし かったが、僕も涙が流れた。  その年同クラスより萩原甚太郎、浜本義絹の二名が 一中に入学し、毎朝焦茶色のカバンを掛け、颯爽と登 校するのを羨しく姿が見えなくなるまで見送るのだ。  考えればその頃から、将来自分が子供をもち、子供 に万一素質があれば最高学府まで勉強させてやろうと 決心ができたのかも知れぬ。  その頃、青山師範から運動担当の間宮という教師が 赴任してきた。兵式体操と称する木銃をかついで軍隊 教練が始まった。卒業年度には、僕はもっぱら指揮刀 をさげて小隊長の行動を勉強させられ、得意であった。  野球もその頃始まり、投手に選抜され、荏原中学校 三年生チーム等と折々試合をして一勝一敗ぐらいであ った。学年担当教師は海野六郎先生といって青山師範 からきた人。毎月一回一品会と称するクラス茶話会を 開き、各家庭から少量の食品、一品宛と持ち寄り、茶 を飲みながら意見を述べ、懇親しあう会である。その 席で、クラス内の「学者」「運動家」「徳行家」の投 票をやることになっている。生徒数が少ないので高一 ・高二合併クラスなので、学者には常に上学級高須君 がいつも選ばれ、僕は高一だが、角力ではトーナメン トで前頭筆頭ぐらいであり、ランニングは速いし、野 球は投手を買われて、いつも「運動家」に当選してい た。  卒業年の一月頃か、学校が火災を起し、焼失した。 雪合戦後のストーブの後始末とのことであったが、そ のため僕等は、今の大井町駅際、踏切下の東芝の煉瓦   *現在の東芝病院の辺りと推測される。 造りの工場内で、明治四十三年三月卒業式をした。  卒業後は専ら店の手伝いと、弟・妹の子守に終始し た。前に述べた父母が分家の祭、本家祖父は、僕は養 子で番頭だから子供達に存分な資産は分けない、と云 ってあまり財産を呉れなかったことと、子供が多かっ たため、家計は貧しかったようだ。  父は堅実な地味な性質で、常に、ムダをするな、金 を儲けることを考えるよりも、ムダをしないことを考 えろと云っていた。  雨が降って店の暇の時は、兄善太郎と二人で酒樽の 縄をほどいて、買えば三銭で買えるわらじを作っては いたこともあった。  或る日こんなこともあった。  兄の親友の伊藤晴村君(伊藤伯爵子息)からさそわ れ、池上山にハイキングした時、僕も同行したことが あった。父は特に兄を可愛がっていたので、兄に三円 の編上靴を買ってはかせたが、池上山で兄は糞を踏ん でしまい、靴を脱いで捨ててしまった。  僕は父の言葉を考え、その靴を拾い、清掃して棒に かけ、かついで持ち帰った。その時は兄が叱られ、僕 はうんと褒められた。  お得意の御用聞きも、兄は倉田町、鹿島町等近廻り *倉田町は大井4丁目、鹿島町は大井6丁 で、それに美男で女中さん達にも好かれ、荷車に積み 目、「森町」とあるのは森下町、森前町 きれぬ程注文があったが、僕は森町、原町、出石町、 と推測されるのでそれぞれ大井2丁目、 金子町、伊藤町等遠廻りなのであまり注文もなかった。 西大井1丁目、原町は西大井2丁目、出 然しよい修行であった。 石町は西大井3丁目、金子町は西大井4 丁目、伊藤町は西大井5・6丁目にあたる。 <<兵役のこと>>  兄は、歩兵第二乙で兵役を免れたが、昭和四年八月   *大正四年の誤り。 二十五日、病気のため二十五歳で死去した。  その翌年大正五年、八月三十一日、姉つるが病死。  その年の徴兵検査で僕は騎兵に甲種合格、十二月一 日習志野騎兵十六聯隊二中隊に入営した。  郡役所で徴兵検査の時、身体学科その他いろいろの 試験が終り、最後に執行官の前に立った時、執行官は 何か印判でも捜している態度であった。歩兵の判は机 の上にあるのに....これはと思って僕は大声で「執行 官殿....」と叫んだ。「何だ」という返事に、「僕は 馬が大嫌いだから歩兵にして下さい」と云った。しか し「馬の嫌いは心配いらないよ。すぐすきになる。お 前のようなものを騎兵に採らなければ騎兵には一人も 採れない」といわれ万事休す。  父はまだ五十才の若さだが、上から順々に三人をと られ、非常に落胆したらしかった。弟軍治はまだ十三 才、炭一俵も持てない幼児であった。入営直前、近所 の古道具屋でこわれた乳母車を買って籠を取捨て、炭 等配送用の車を作り、十三才の弟用に買って来た父の 憂うつな顔はまことに気の毒であった。  折々手紙をよこし、近所に有力な店ができてうちは 売れなくなってきたと云ってきた。八才、六才の妹二 人も居り、家庭のことを考えると憂うつで、いっそ脱 走しようかと思ったこともあった。  一面、同僚新入兵四十四名は、騎兵選抜要項に基き 全関東より厳選された優秀者のみで、ひそかに聞いた 学歴は、大学出身五人、高校出身八人、中学出ほとん ど、高等小学校出は僕等五人という状態で、身長順に 並ぶと、僕は四十四人中の四十三番という次第で、非 常な劣等感を感じた。  学科の最初は何といっても軍人精神の肝要、勅諭で あるが、暗記試験で偶然にも僕が第一位を得て、班長 から非常に褒められた。その時、<<ヨシッ、いけるぞ。 軍隊の教練、勉強は学校の勉強と違って、馬術、銃剣 道、射撃、勅諭、軍隊内務書、騎兵操典、陣中要務令、 馬事学等々、誰も学校ではやらない新規の勉強だ。な にくそ、敗けるものか>>と発奮した。<<怠けて過して も三年たたねば帰れない。どうせ三年なら進級して錦 を飾って帰ろう>>と決心がついた。 その頃父の日頃の教訓が頭に浮んで来た。 一、人の嫌がる仕事は進んでせよ。 二、金を儲けるよりムダをするな。  一日三回の炊事場への飯とりは新兵の仕事だが、皆 これを嫌がる。ぼくは毎回必ず行くことにした。  或る日炊事場の端の灰捨場が目に入った。連隊内の 五十余のストーブは、夜、点呼ラッパ直前に水で消し ここに捨てる規定である。見たところ、まだ相当燃え る燃料が沢山捨てられているところから、「無駄をす るな」と父の声がした。よし決心はついた。  一方自分の班では割当ての燃料が不足なので、三年 兵も苦情たらたらの時である。その翌日から朝起床ラ ッパの前に起き上り、この燃料を二つのストーブが見 えなくなる程運びこんだ。  暫くの間、僕の行為であることが判らなかったが、 間もなく見つけられた。寒い寒中に、たき余る燃料に 二年兵、三年兵諸君はカン声をあげて喜んだ。この行 為はストーブ使用許可期間中続行した。このため、二 ・三年兵の僕に対する感じは良好で、騎兵隊名物のビ ンタは遂に一回も食わなかった。ビンタを厩で喰う時 は、安藤は兵舎に行って銃の手入れをしろ……、兵舎 の倉庫でやられる場合は、安藤は厩舎へ行って厩番を 手伝え……と特命が出て、遂に一回もビンタを食った ことはなかった。親の言葉の尊とさが身に浸みた。  こうしたわけで、厩の寝藁出し等、他人の嫌がる仕 事は率先してやった。  二年兵、三年兵のウケもよく、入隊後半年の精勤章 (一ヶ中隊二人)も右腕に輝いた。  故郷の先輩、中村歩兵伍長勤務上等兵、西村懇太郎 伍長勤務、安藤駒太郎軽重兵伍長勤務上等兵の長剣を さげた面影が脳裡に焼きついた。消灯後の寒い夜も、 毛布をかぶって廊下で勉強したこともあった。  元来、運動は得意だし、馬術も優秀で、二年兵にな る時四十四名中八名、そのトップで上等兵に進級し、 初年兵係班長助手を命ぜられた。第二期検閲で初年兵 を仕上げた後、炊事係監督助手を命ぜられ、三ヶ月程 やったこともある。馬術競技審査でも合格し、聯隊七 百人ぐらいの中で十人の馬術褒章徽章を受けたし、三 年兵になる時も中隊四名のトップで伍長勤務上等兵と なり、その月入営の初年兵係教育班長を命ぜられた。 大学出身者でも、除隊間際まで星一つで酒保の助手を やっていた兵隊もいた。皮肉なものだ。小学校出身の 教育班長は、その重責にやや当惑したが、僕が入営し た時の班長も伍長勤務上等兵の片岡伊三郎氏であった が、同君の教育振りの長所を真似て指導した。片岡君 は、後に千葉一区の代議士、民自党副総裁、川島正次 郎氏の戦犯追放後代議士に当選した立派な人であった。 僕も技術の巧拙よりも精神的勇気、元気を主眼として 教育した。  さて四月に聯隊長の第一期検閲がきた。僕が中隊最 下級の班長で、従って訓練及講評も当然最下位と考え たのか、中隊長は検閲課目中一番六ヶ敷い馬上一斉射 撃を割当てられた。入隊四ヶ月ほどで、馬に乗るのも やっとの新兵が馬上の一斉射撃をやるのは、一番難課 目である。僕は二中隊で、その前に一中隊の三班が同 課目の検閲を受けたので注目していた。馬場運動の後 射撃動作に移るのだが、ドンと発射と同時に馬は驚い て立上がったり駈出したり、初年兵はほとんど落馬し てしまった。  続いて二中隊の僕の班の番となり、聯隊長勤め聯隊 付将校が採点の図板を首にかけて馬場の中に入り、検 閲が開始された。僕は一中隊の落馬の原因が、兵隊の 落付きが不充分であったと考えていたので、聯隊長が 「班長早くやれ」と命令されたが<<まだまだ>>と思っ てなかなかやらない。四・五回云われて、兵隊も大分 落ちついたので一斉射撃を号令した。兵隊が充分落付 いたのと、敏感な馬も充分落付いたためピクとも動か なくてうまく終った。その講評にも、第三班は最も宜 しい、第一兵隊に元気があると云われて面目をほどこ した。それは、他の班長は下士志願の古参者で、講評 の結果は己れの成績にひびくため、毎日の猛練習でし ぼるので、兵隊は尻や膝頭をすりむいて痛いので、自 然元気もないのである。僕は日頃の訓練で、元気よく やれと要求する外は、「僕は、泣いても笑ってもこの 年末には帰るのだ。教練ではしぼらない。技術はヘタ でもよいから検閲の時は元気よくやれ」と日頃から云 っていたため、ニコニコ笑いださんばかりの元気であ った。中隊長からもそのあとで褒められた。翌年三週 間の予備役勤務演習に応召された時中隊中ただ一人騎 兵伍長勤務に任官した。  初年兵教育完了後は、いわゆる(三年兵)神様とし て、日々所定の演習後は比較的暇があり、東京へ外出 の時等、神田神保町で、物品販売業繁栄策等の古本を 買い求めてきて読んだ。伍長勤務になれたので、地方 に帰っても伍長勤務になろう、と決心して本を読み漁 った。  商売繁昌の秘訣は、仕入の合理化でよい品を安く仕 入れて安く売ること、サービスをモットーとしてお客 の便を図り、愛される店となる事だ等々考えつつ、十 一月除隊した。  父母たちは首を長くして待っていたらしく、十二月 一日から商売をやれ、と云い渡された。 <<商売のこと>>  留守中、近所には有力な店ができて繁昌をしており 店は相当圧迫されていた。(続く)

中列左から3番目が安藤清吉長男、安藤清一 1945年6月台湾にて戦死